昭和49年10月05日 朝の御理解



  御理解 第76節
 「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。牛馬は我子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
                                                                                人が人を助けると言う事。それは意味の浅い意味においてなら出来ますけれども、本当に助けると言う事は、信心によらなければ神様のおかげを頂かなければ、助かりませんただここにあります。水に溺れておる者を見ると、舟を出したり又は泳ぎの出来る人は、泳いで行ってそれを助けると。そういう意味での、助けると言う事ならできます。けれども本当に人間を助けると言う事は、神様のおかげを頂かなければ、出来ませんから、いわゆる人を助ける。
 言うならば、お手伝いをさせてもらうと言う事の方が本当ですね人を助けると云うお手伝いをさしてもらう。そこでこれは特に、取次者に求められる訳ですけれども、教祖様がおっしゃられる様に、この方は人が助かる事さえ出来ればと、こう言うのである。取次者。是はまぁ御信者さん方でも矢張り同んなじです。所謂お道の信心者。いわゆる信心者の全部が取次者と言う風にも言われるのですから、そういうなら気持ち。取次者の気持ちで、取次助ける。
 けれども助けると言う事は出来ませんけれども、助けるお手伝いをさせてもらう。助けて下さるのは、神様である。でなからなければ、本当の助かりになりません。人間が人間を助け切る筈はありません。唯溺れておる者ね。溺れておる者を引き上げてあげるとか、金がなくなって困っておられる人に、金を貸してあげるとか、恵んであげるとかと、そういう意味での、助けるのなら出来ますけれども、本当に人間が人間を助けるという事は、やはり、神様のおかげを頂かなければ助かりません。
 そこで私が助けてやったと言った様な物が残ってはならないと言う事です。まぁ例えば取次者が「あぁあれは、私の取次で助かった」と、こう言う様な事であっては、その先生の所では助からんと思うです。そういう例えば恩着せがましい様な。唯私が、自分と言う物を空しろして、神様に御取次をさして頂いたというだけであって、助けて下さるのは神様なのす。ここんところがスッキリして参りますと、人が助かる様な。なら例えば皆さんの場合でも同じ事。
 最近言われる所の、合楽示現活動とに、皆さん参画しておられる訳ですけれども、人に言わばおかげを受けておる有様、状態を人に伝えて人も助かって貰う為の、御用をさしてもらう事が合楽示現活動です。それにはね矢張りどうしても力というか、そういう自分の助かっておるまあ度合が私は力だと思うし又光だと思うです。又本当に助かっておる。そこで私共が、示現活動に参画さしてもらうと言う事でもです。それが真心でなからなければならないと言う事です。
 私は今朝方から本当にこの人の真心と言う物は、大変な働きを神様は見せて下さるもんだなと言う事を、日々不思議の中にあるのですけれども、今朝は取分けそう言う不思議を、又感じさせて頂いたんです。昨日ある方が、御礼にと言うて寝具、布団ですね布団を一式お供えになりました。それはもう本当にこんな布団見た事がないと言うごたる、立派な布団です。しかもその布団には私のこの紋がねこう、大きくおいてあるのです。勿論座蒲団も落ち込む様な座蒲団が二枚ついとります。
 それから夜衣が入っとります。丹前の大きいのですね。夜衣もついとります。もう夜具一式一切で御座いました。月次祭にお供えをさしてもろうてから、使わせて頂こうと思たら、昨日それを急に、私が使わせて頂くと言う事が、そのままお供えだと言う意味の事を頂いた。それで昨日、ゆうべ早速、今までのを片付けさして頂いて、それを使わして頂いた。その一式が敷いてありますから、言うならばあれだけ着るならば、どんな寒い時でも、暖かい訳なんですね。大布団にそれに夜衣まで付いてるのですから。
 今私はまだ夏布団一つで寝らしてもらってるんです。それにその夜衣だけでも、大体大きな布団一枚くらいある程しに、立派な物ですけれども、何か愈々着せて頂いて、何か寒い感じがしましたから、又そこに出してありますから、上の大きな大布団も一緒にきて休んで、まあ恐らくこれば来たらもう暑くなってから、すぐかたずけんならんだろうと思うとったんです。
 ところが今朝まで、それこそ、昨日の朝の御理解じゃないけれども、はぁ極楽の中ちゃ、こげなもんじゃろうかと言う様な。もちろん、暑くもなければ、寒くもない暖かい。その体に直に伝わって来る、その暖かさと言うものが、今朝までとうとう、その夜衣と布団を着っぱなしでした。今朝目が覚めましてから、家内達はまだ夏布団。孫と二人で休んどりますから。
 「ゆうべは寒かったろう」と私が申しましたら「いえ寒かだんじゃありませんでしたよ。なるほど、加減はこげんん良くなったけど丁度良かった。」とこう言うのです。それから、私起きてから肌着一枚で洗面いたしますから、行ってそんなに寒いと言う事じゃなかったんです。不思議な事じゃある「ゆうべはこれだけ着てから、何というか暖かさというか、何か本当に極楽の中に、何かに包まれておるという感じだった」と言うたら、家内が「本当に人の真心ちゃ大変な事ですね」と言うてから。
 家内にそう言われて、本当にこれは矢張り人の真心をね。こういう風なふうに不思議に、見せて下さったんだなと思いました。以前ある方が大変寒い時に、お弁当を作ってあげるのに、それこそ真心いっぱいで作られた弁当が、寒中に中の御飯が温かかったと言う話を聞いた事があるんです。もうす引き切れるごと冷とうならん筈なのがね、蓋を取った所が温かい。本当に人の真心とはとそんな話を聞いておりましたけれどもね。私の場合には、本当言うなら夜衣一枚だけでも。
 今の私は大体暑がりですから、暑いくらいあらねばならんのに、大布団を着せて頂いて、しかも一晩中。それがもう何とも言い様がないです。もう暖かーいという感じなんです。暖かい事は暖かいけれども、なら汗が出ると言った様な事が無いというのです。丁度良い暑くもなければ寒くもない。もう本当にこれが極楽というのだろうと言う様な。まだ所謂極楽ムードの中に、ゆうべは寝まして頂いたんです。
 それでそれを今朝から家内に申しましたら「本当に人の真心ちゃ、大変な事ですね」と言うから、矢張り本当にそうだったと思うです。昨日はその方が近所の方に、一年六か月になる子供さんが、高い所から落ちて、脳天を割って、医者は「もう駄目だ」と言われて、久留米病院に入院された。助かった所でまともな、言わば馬鹿になるという意味の事を言われたそうです。
 所がここであれは、脳膜炎ですかで。おかげを受けた人が、勿論医者がその時も、医者が「良くなっても一人前ではない」と言う事であったけれども、助けたいの一心で一生懸命にお願いをして、おかげを頂いて前回のおかげを頂いた。所が小学校中学校、高校というもの、それこそ優等生で卒業して、一ッ橋大学という様な大学に入って、卒業のおかげを頂いた。二十何年前の話ですが。その話をその方が聞いておられてね。おかげを頂けば、そう言う事はないという話を。
 言うなら示現活動に行って話された。その方をお導きして見えての、お礼のお届けでした。本当におかげを受けておるから、お礼にというて、布団を持って来るだけではなくて、人のお導きまでも。本当に神様へのお礼の心が、示現活動になっておる。私がそれを神様にお取次さして頂きましたらね、あのー水田ですね。水田が干ばつの時には、地がこう引き割れてしまうでしょう。そしてもう赤く枯れてしまうでしょう。その情景を頂くんです。もう引き割れてしまって、もう枯れる寸前という事なんです。
 そこへねこちらから水がスーッと流れて入る所を頂きました。だから今お恵みの水が間にあえばね、この田んぼは生き返るんだと。だから一つ信心しておかげ頂きなさいよというて、お供えさして頂きましたですけどね、もうおかげを受けると言う事はもう是は言うなら、普通の人間の考えでは想像及びも付かないです。馬鹿になる筈のとが普通におかげを頂いただけじゃなくしてから、それこそ小学校から高校までずば抜けて優秀で、しかも大変難しいといわれる一ッ橋大学に入学してから卒業したんですからね。
 福岡の川上さんの御親戚です。本当に真心一心。わざわざ種子島ですから。お参りして来た訳でもない。それこそもう丁度川上さんが向こうに行っとられる時でしたから、もう電報が、矢継早にずうっとお願いの電報がありましてね。お取次させて頂いた方の話を、その方が聞いて言うならば、お礼の布団とそれに伴うて、神様が一番喜んで下さる、人間のお供えまでもされた訳です。
 その事がもう本当に、所謂示現活動と言う事が、人が一人助かると言う事が、そういう御用をさせて頂いたと言う事が、もう有難うてこたえんという感じです。昨日そしてその御理解を頂いてね。所謂合楽から流れて行く所のお恵みの水に、それが潤う事が出来れば、いわば引き割れとるものでも整うて来る。枯れよるとでも生き上る。そういうおかげが頂ける事の為に。
 昨日丁度神愛会で、先生方が共励をしておる時でしたから、暫くそこで一緒に入ってからその話を頂かれました。でその話を先生方にも又させて頂いた事で御座いましたけれどもね。実際のその示現活動の素晴らしさ。又実際に人間が助かると言う事は、もう駄目だというのでもその様なおかげを頂けば、助かるんだと云う事実をね聞いて頂いたんですけれども。私は思うのに三代様の御言葉の中に「真心一つあれば助かります」と、こういう人が親切一つで助かりますとか、真心一つで助かるというその真心とはです。
 今日の御理解でいう人が助かると言う事。人間が人間を助けると言う事は出来ないけれども、この人が本当に助かって貰たいというその心がです。言うならば示現活動がです。助かって貰たいというその示現活動がです。真心であると言う事。しかも私は今日皆さんに此処ん所を分かって頂きたいと思う。真心とはです。御礼の心が伴うて初めて、真心だと言う事を聞いて頂きたいです。
 もうあの人に真心でと。あの人は私の真心を受けきらなかったと言う様な事を言いますけれども、それにはね私自身が、神様から頂いておるおかげ。所謂神恩報謝の心がね。神様のお礼の心が伴うての、示現活動でありお導きであって、初めて人が助かる働きになって来る。助かると言う事は、人間が助けたものでは、大した事ではない。神様が助けて下さると云う所にです。死ぬるか助かっても馬鹿になるというのがです。返ってそげなだんじゃない。ずば抜けた優秀な頭脳を、改めて頂く事が出来た様にです。
 お礼の心が伴う。そして示現活動これが真心です。ただ自分の我で助けよう。助かって貰たいだけではいけないと言う事をです。神様に頂いておる、そのお礼心神恩報謝の心がです。どうとかしてお礼をさしてもらわねばおられないものがです。私は昨日の布団の中に込められておったんだと。そのお礼の心が伴うて初めて真心である。お礼の心が伴うての、そのお導きである。そういう真心が言うならば篭っておるものですから、家内をして人の真心とは、大変な事ですねと言う事になって来るのです。
 どんなに考えても不思議です。だから勿論「信心しておかげを受けると言う事はです。不思議とは言うまじきもの」と、こう仰るのですから、それこそ「祈りておかげのない時には、これぞ不思議なる事ぞ」と仰るのです。そこで祈っても願ってもおかげにならんならばです。まあだ真心が足りないのだと知るべきです。しかも真心とはそれは様々にありましょうけれども、今日は私は皆さんに真心とはお礼を言う心。
 神様にお礼を申し上げるその心が伴うてのお供え。しかもそのお供えには、真心が伴っておる。その真心の内容はお礼である。だからそこに人が助かる事になってもです。恩に着せると言った様な事は、そういう心が起こって来る筈がありません。私が導いてやったから、あの人が助からっしゃったと言った様なね。お手伝いこそさして頂いたけれども、助けて下さったのは神様なんだという。
 ここにね純真無雑というか、そういう人間の汚い心。私がと言う様な我情が入らない心が真心。しかもお礼の心が伴う心持って、私は完全な真心と言う事になるのじゃないでしょうか。だから助かるだから神様に通うのだ。だからそこに例えば不思議が現われるのである「信心してみかげのあるのを不思議とはいうまじきものぞ」と。祈りてその不思議が見えないなら、それこそ不思議な事なんですから自分の一心。又は真心が欠けておると悟らしてもろうて、愈々真心の追及をしていかなければならないと言う事ですね。
   どうぞ。